Humanity

心理の階層

僕の目は、 そこに箱があることを認識した。 ちょうど僕の目の前にある。 大きな箱だ。 僕の肩の高さくらいだろうか、 綺麗な形をした、 黒い箱だ。その表面はガラスのようで、 中がうっすら透けて見える。 黒い靄のようなものが中に満たされているようで、 ふわふわと漂う様子が外から見える。 僕はその箱が気になった。 なぜだか惹かれるものがあった。 このような経験を以前した気がした。 僕はその箱に顔を近づけ、 中をよく見ようとした。 靄の影から、 何か複雑な部品のようなものが見え隠れしていて、 見えそうで見えない。 部品は複数あり、 それぞれが噛みあい、 どうやら動いているようだった。 これまで見たことないような形で、 理解しづらい動きをしていた。 しかし、 すべてが理解できないわけではなく、 理解できそうなものもあった。

 それから、 僕はその箱を観察し続けた。 どのくらいの時間がたったのだろうか。 この空間には、 時間という概念はおそらく存在しない。 誰も時間というものを決めなかったからだろうか。 僕には時間というものを持っていた経験があるような気がした。 何年何十年そんな時間が過ぎた気がした。

 時折、 その箱に近づく人がいた。 僕のように顔近づけてその箱を見た人は、 不思議そうな顔をしたが、 すぐさま何もなかったようにどこかへ行ってしまった。 また、 何人かで箱を見に来た人もいた。 その彼らも冷やかしのように笑うと、 すぐさまどこかへ行ってしまった。 彼らの会話でわかったのだが、 僕以外の人には、 この箱はただの黒い箱にしか見えないらしい。 つまり、 中の様子が全くわからないのだ。 そんな箱がぽつんとあるだけでは、 関心はわかないだろう。 しかし、 そんな人の中にも、 箱の中が見えているような人もいた。 その人は僕と同じように長い間、 そこで箱を観察し続け、 頭を悩ませていたが、 ある時、 諦めたようにどこかへ行ってしまった。 それ以来、 その人は帰ってこない。

 僕は観察を続けた。 初めて見た時より、 理解できる部分は増えていた。 どうやらこの箱は開けられるらしい。 その開ける仕組みのところがどうしても靄がかかって見えないのが煩わしい。 それと同時に、 この箱を開けて中を見てみたいという気持ちも強くなった。 それから僕は、 また何年も考えた。 箱を開ける仕組みについて。 見えないのだから考える他ない。 これまで見えた部品や動きから、 その仕組みについていくつもの可能性を考え、 試してみた。 しかし、 箱は開かなかった。 開かなかったけれど、 僕は落胆していなかった。 開かなかったという事実だけが残ったのではない。 この方法では開かないという、 結果も重要な情報として僕のもとに残ったのだ。 僕は箱について、 隅々まで調べた。

 やはり、 時折人が通りかかる。 僕を見て、 観察を続けても無駄だよという人もいた。 僕は気にも止めなかった。 その人の目が死んでいたから。僕は観察を続けた。

 ある時、 ふとしたきっかけである方法を思いついた。 ふとしたといったが、 それは今までの観察による情報と失敗の積み重ねにより、 導き出された、 論理的な方法だった。 発想というのは、 そういうものだ。 常人には理解できないから、 天才の発想なんかと言われるが、 天才の中にもはっきりとした理論がそこにはあるのだ。 その理論が飛躍しているから常人には見えないだけなのだ。 そんなことを考えられるほどに、 僕は落ち着いていた。 さっそくその方法を試してみた。

 思った通りだった。 箱は開いた。 長い間熱望した、 箱の中身だ。 これまで、 ずっと箱を外から観察し続けてきたが、 その箱の全容まで理解したわけではなかった。 靄で見えないところはいくつもあったし、 理解できない構造や動きもあった。 それを直接観察できると思うと心が踊った。 僕は早速箱の中に飛び込んだ。 横目で見えた。 その箱を通りすぎる人は何にもいた。 しかし、 その箱に、 僕が開けたという事実に、 足を止める人は一人もいなかった。

 僕の目は、 そこに箱があることを認識した。 ちょうど僕の目の前にある。 大きな箱だ。 僕の肩の高さくらいだろうか、 綺麗な形をした、 黒い箱だ。 以前もこのような経験をした気がするがよく覚えていない。 箱の中には、 黒い靄が満たされていた。 靄が濃すぎて、 中が全く見えない。遠目から見るとただの黒い箱だ。 時折靄がうごめいて、 模様のように見える。 僕はその模様に少し見とれたが、 すぐさま関心は失われ、 箱をあとにした。 近くで箱を熱心に観察している人がいた。 僕はその人にそんなことをしても無駄だよ、 と心の中で言った。

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